第一節 逢魔時 (前)


 戻り橋を通り過ぎた頃、日は暮れ始めて逢魔の刻となっていた。物の怪の類が動き出し紅の瘴気が町を覆い尽くす夕暮れ時。
 この時刻に動き出すあやかしたるや、せわしい物と強き物がいるという事はあまり知られてはいない。逢魔時が危険とされるのは正しくは物の怪が動き出す頃だからではなく、危険な物の怪が活発化する頃だからである。そもそも物の怪は夜の方が動きやすいというだけで日中まったく動かないというものでもない。あやかしに昼も夜もなく、何故ならば彼らは元々人であった物だからだ。昼であろうと夜であろうと人は動くもの。夜に物の怪が活性化するのも……元であった人の本性が曝け出されているだけである。
「まったく」
 人は物の怪を恐れるが、自分達を棚に上げて夜の物の怪は怖い等と良く言えたもの。夜に凶悪化し恐怖の対象となるのは人そのものなのだ。
 生きていても死んでいてもそこに大きな差異はないというのに。
 最も恐ろしいのはやはり人の存在そのもの。
 物理的にも精神的にも彼らは全てを作り変えてしまう。
「ふう……」
 気だるさを感じて私は電線の柱へと背をかけた。風が通り抜けると素足と胸元に涼しい感覚。しかしすぐさま制服のスカートが足に張り付き不快な湿気が私を支配する。生温い汗が太腿を流れると、風が熱を奪って冷たい感触にぞくりとなった。
「はうぅ……んっ……」
 私は思わず身を悶えさせて喘ぎを発してしまう。素足から熱を奪われるたびに全身がぞくぞくと震える。不快ではあるが身を蝕まれるようなこの風の流れは悪くはない。今すぐ服を脱いで温い風の流れに身を任せてみたい気もした。
――もう、そんな季節――
 秋が近づいて残暑の時期。私がこの町に越してきたのもつい一か月前であったか。湿った内陸の風は心地が悪く海に近い東のこの地へと辿り着いた。傘馬と呼ばれるこの町は人も多くなく交通も悪くなく活気も程々に、私の好みであった。もっと海の近くへと移る事もなくここで良かろうと私は身を落ち着けた。
――なにより――
 私にとって理由となったのは、あやかしの瘴気が妙に強い地であったからだ。理由はわからない。ただこの地は物の怪の気配が常に絶えない。異常な地ではあるが気付いている人は少ないようだった。
 人々はおそらく慣れている。
 これが普通であると思っているのだ。
 逢魔時となると大通りに人の気配はほとんどなくなる。まだ夕方であるというのに、人影はまったく見えない。さきほどのまでの喧騒が嘘のようだ。現世の日本において、かような光景はやや珍しいものではないだろうか。だがこの町では皆、普通の事として受け入れられている。
 夕刻過ぎに出歩いてはならない。
 物の怪が動き出す頃であるから。
 せめて巫女様と一緒でないと危ないのだよと。
――巫女……己を誓と修験で縛る者――
 物の怪の類を退ける者である巫女はこの町では重宝されている。巫女を志す少女も多いらしい。だが修行の厳しさから脱落する者がほとんどであるとも聞く。
 まだこの町に来て間もなき頃。逢魔時に通りをうろついていた処、巫女と勘違いされた。この時刻に通りを平気で歩けるのはこの町では巫女か神職の者くらいであるらしい。神職とて相応の修験を積んでおらぬ者には逢魔時は危険であると言う。
――それほど、危なきとも思えぬが――
 確かに強い瘴気に満ちた町ではある。だがさほど有害な物の怪の気配は感じられない。まだ私は悪戯好きな動物のような怪にしか遭遇してはいなかった。流石に恐れすぎではないかと思った。

 まだ、その時は。

 次第にそうではない事を私は知ることになるのだが。

「む……?」
 夕焼けが強く感じられる。赤い空気が鋭利に目を犯すように浸透した。
「なにが……」
 忌々しい不快な光に私は眩暈を覚える。
「あれか」
 通りに小柄な人の姿が見えた。中年の男か、老人か……近づくと少年のようにも見える。不定形であった。
 どうせたいした物の怪ではなかろう。
 夕焼けに照らされたその姿は影を揺らしながら少しずつ私の方へと近づいてくる。視界が一瞬、光で邪魔されると……あやかしの姿は目の前に転じていた。距離にして、三歩半というところか。そしてあやかしは私へと語りかけてくる。
「そこの……」
「朱の盤か」
「よく御存じで」
 言われるより先に答えてやる。余計な面倒は好かない、今は早く狂喜を感じたいのだ。
 朱の盤は顔を晒した。やはり想像通りの醜く鋭い顔つきをしている。目は皿のように、額からは針のような髪の毛、口は耳まで大きく裂けて、歯は鋭き刃となって唇から抜かれ、顔全体は燃えるような朱色。
 異形の姿は見慣れてはいるが生理的に受け付けない醜悪さや怖さと言うものがある。かような物の怪は見る度に背筋が凍るように震え、心臓と肺が途端に荒い挙動を示す。手先の筋が赤くなる。抑えようもないこの緊張と息苦しさ……私に生を感じさせてくれる瞬間でもある。
「さような脅かしは通用しない」
 私は息を整えて強く言い放った。朱の盤は異形の顔を歪ませながら口を動かす。
「妙な娘だ、我らと同類か」
「違うとわかるだろう」
「しかしお前は巫女とも異なる」
「何れにせよどうでも良い、私は物の怪を退治する」

 護法を発動させると朱の盤は身を退いた。一瞬にして二十歩の距離を奴は移動する。だがそこすら私の射程である。
「やはりたいした物の怪ではないか」
 すぐに退いた判断は立派ではあるが、奴は私の戦力を理解していない。話にならないと思った。
「つまらぬが仕方がない、遊びを入れるのは私の性ではない」
 具現化して護法の童子は不定形ではあるが、子供のような姿をしていた。正体は良くわからぬが護法もまた人から生まれたものなのであろう。
「はぁ……」
 震える身体を思い切り突き動かし、右腕を奴の方へと振り下ろした。私は護法の童子に命令を下す。
「打ち砕け、あの外道を服従させよ」
 一瞬の刹那。護法の童子は実体化すると淡い光を発しながら朱の盤へと食い付いた。すぐに光は奴の身体を貫いて四散し、すぐに元の形へと戻る。
「ぬぬ、女め」
 朱の盤はかろうじて形を保ってはいるが既に覇気は感じられない。もう一度、護法が背後から貫くと奴は完全に弱体化した。ゆらゆらとくすぶる陽炎となって大通りに霧散していく。私は他にやましい物が近づいてないか気をつかいながら、霧散する朱の盤の中へと歩を進める。
「お前は物の怪の本質を知る者か」
 朱の盤が私に尋ねた。
「わからない……」
 私は身を焦がすような陽炎の中で恍惚として答えた。
「あやかしとは」
「人であって人でないものであろう」
「つまりかつては人であったものか」
「いいえ、今も人だ」
「わたしもか」
「無論、外観や生活様式、行動が異なるだけでお前も所詮は人のまま」
「たいした娘だ」
「その証明をする」
 朱の盤は私の護法にかき回された。形を留められずに立ち去ろうとする。
「おい」
 何か問われた気がしたが、よく聴こえなかった。じわりとした瘴気が残る中、私は汗だくで立ち尽くす。
「あぁ……」
 心地が好いのはひとときだけ、暁が喉に突き上げる。今日の夕刻はとても暑い。
「水が欲しい……」
 私はふらふらと橋の方へと戻った。身体がどこかで水気を求めている。馬鹿な……川にでも飛び込むつもりか。どこかの家で水を一杯貰えれば良い。しかし全身に水を浴びるのも心地好い。火照る身体で触れる物を蒸発させてしまえば。いっそ何もかも溶解させて取り込んでしまいたい。
「うぐぐっ……」
 めまぐるしく頭の中が回転している。正常な思考がし辛い。朱の盤は私の精神をかき乱したのか。護法はどこへいった、私を守ってはいないのか。眩暈を覚え倒れそうになる。倒れてしまいたい……しかし私はまだ何か油断できない気配を感じていた。
「ええぃ……」
 額を手のひらで叩いて意識を戻そうとする。次第に世界は元へと戻っていった。



「なにか……?」
 火のくすぶる音とガラガラとした車輪の軋みが聴こえる。
「どこからだ……上か……」
 頭の上が熱い……。上空を見上げると火車が舞っていた。先の交わりが他の物の怪を刺激したのか。車の中心には鬚を生やしたいかつい男の顔。車輪はいつの時代のものかわからぬ、鉄と木で構成された大きなものだ。一般的な自動車のものではなく、鉄動か、馬車のそれであろうか。それは火の粉を撒き散らしながら私の様子を伺っている。
「下からもか」
 足元に小刻みな振動を感じる。橋の下から巨大な昆虫の足のようなものが見え隠れした。蠢く節足は油に似た臭気を放って予期せぬ挙動を見せる。おぞましい嫌悪感から吐き気がした。
 虫は嫌いだ……それは人ではないから。
 元が人であったとしても、生理的に受け付けられない。あのような節足に全身を鷲掴みにされ、柔肌に毛根が食い込むのを想像するだけで気が狂いそうになるではないか。またしても背筋がぞくぞくと震える。
「ううっ……」
 火の粉が降ってきて、私の肌を焼いた。上空の火車も忌々しい。私ではなく、あのおぞましく巨大な虫を焼き払ってはくれないものか。しかし念じても火車は私の頭上でガラガラとやかましく。
「忌々しい!」
 思い切り火車を睨みつけた。すると護法がどこからともなく飛来しその中心を貫く。轟音と共に車はバラバラの鉄と木片になって飛び散っていった。
「ようやくか……」
 私の気が集中できていなければ護法は動けない。熱気と瘴気で精神が散らされていた為に護法はうろついて待機していただけであった。護法の童子は気まぐれなもの、念ずるだけで勝手に動く式神の類のようにはいかず道具としては扱い辛い。
「……?」
 甲羅の砕け散るような甲高い音が響いた。巨大な昆虫の羽が宙を舞い、粉々の粉塵と化した。直後に、荒々しい風が粉塵を巻き込みながら私を通り過ぎた。
「はふっ……」
 咄嗟に息を止めたものの、やはり避けられずむせる。肺から噴き上げる不快感にごほごほっと咳き込んだ。
「もっと静かに片付けられないものか」
 昆虫を仕留めたのは風刃であろう。既に見慣れた狗法の技であった。荒々しい男。近くに私がいる事などわかっていた筈。

「でっかい虫だったんでな、つい興奮しちまった」
 橋の上にその男はいた。巨大な昆虫の姿も火車の姿も既にどこにもない。居るのは路上に立ち尽くす私と橋上の彼のみである。
「…………」
 汗だくで気持ちが悪い。更にこの男に見られているという状況。たまらなく不快だった。
「暑そうだな、ヒカリ」
「そんな事はない」
「なんか気分悪そうだぞ」
「お前がいるからだ」
「そんなしかめっつらすんなよ」
「私は気分が悪い」
「じゃあ気持ち良くしてやろうか」
 男は身軽に跳躍すると瞬く間に私の眼前へと降りた。
 そして私の肩に手をかけようと……。
「近寄るな!」
 私は叫んで身を引いた。
 男の野蛮な気の流れに鳥肌がふるると立った。
「まあ聞けよヒカリぃ。気が乱れている時は徹底的に昂ぶらせて発散させればいいんだ」
「何をするつもり」
「俺の気を脊髄から流し込んでだな」
「汚らわしい……」
「んな事ねえって、爽快なもんだぜ」
「お前は狗法をそういう事にしか使えぬのか」
「良くない事をしてるわけじゃないだろ」
「私は良くない!」
 不快だ、なんという不快な精神なのか。近くにいるだけで心身が澱んで犯されそうになる。触れられたら肌から腐食してしまいそうだ。
「嫌われたもんだなぁ」
「お前はこの町で一番嫌い」
「俺は自分に素直なだけだぜ」
「だから嫌いなの」
「嘘をつくよりはいいと思わねえか」
「距離をおけと言っている!」
 首筋が痒い、背中が張り詰める、両脚を流れる汗がどろりと濁ってくる。ああ気持ち悪い、早くこやつから離れたい。近寄られるたびにどこもかしこも乱されて不愉快だ。
「ま、余計な世話だったな。あの程度の凶虫……ヒカリならわけもないだろう」
「お前が余計なのはいつもの事、失せろタイキ」
「やれやれ……取りつく島もねえってか」

 この男の名は山根大樹(やまねたいき)
 狗法と呼ばれる術を使う男だ。以前山に住んでいた天狗から数々の術を教わったらしい。今日の服装はワイシャツに漆黒のズボン。どこかの制服のようにも見えるが学生ではないらしい。外見は二十歳前に見えるが年齢はわからず、聞いてもはぐらかされる。何処に住んでいるのかもわからない。この男の素正など興味もないが……わからない事が多いというのも不快に感じる理由のひとつだ。
「…………」
 しかし今、タイキに凶虫を駆除してもらったのは有り難くもあった。私は虫が嫌いであるからできれば近づきたくはなかった。あの凶虫のおそらくはおぞましい全身を見る事がなかったのは幸いであろうか。虫以上に……この男は嫌いでもあるが……。
「私は先生の所へ行く、タイキ、余計な風を起こすな」
「また佐原先生のとこかぁ……ヒカリは好きだな」
「先生は好きだ、お前は嫌いだ」
「ははっ、相変わらずストレートに言うな。ヒカリのそういうとこ嫌いじゃないぜ」
「私はお前は嫌いだと言っている」
「あっ、そうだ……。シホが慌ただしく結界張ってたぞ」
「……結界を?……」
「最近、物の怪の数が多いからなぁ」
「…………」
 シホとは陰陽師の娘であり、私のクラスメイトでもある。この町に来て最も最初に私と親しくなったのは彼女であった。シホが苦心しているのであれば、手伝わずにはいられない。手伝える事があるのかどうかはわからずとも。
「シホはどこに?」
「わかんねえな。さっき3丁目の公園にいたが、もう別の場所にいるんじゃねえかな」
「……むぅ……」
 まあ狭い町である、探せばすぐに見つかるであろう。それにシホの清楚な気動はよくわかる。先生の所で水を飲んだら探しに行く事にしよう。
「わかった、ありがとうタイキ」
「なぁに、じゃあなヒカリ」
「くれぐれも」
「ん?」
「余計な風を起こすな」
「なんでもう一度言うんだよ」
「お前は馬鹿だからだ」
 タイキに背を向けると私は先生の家へ向かって歩いた。
「…………」
 振り返らずとも、タイキの気配はすぐ消えたのがわかった。


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